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zoom RSS 相生 生家の記憶(4)

<<   作成日時 : 2006/12/17 00:01   >>

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三人兄弟の末っ子で長男の私は、上に二人の姉がいた。
11歳年上の長姉C子と9歳年長の次姉K子。それぞれいまは、赤穂市のM家と相生市のH家の主婦である。
次姉のK子姉と、陸の天満宮の社務所前で撮った写真がある。1958年1月の日付が、この写真の白枠に書き込まれていた。私はまだ3歳になっていなかった。写真撮影地は、現在、相生駅の西はずれ、山陽新幹線の高架下になっている。



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この二人の姉と両親に、過保護と言っていいほど大事にされ、甘やかされて、私は育った。母は私のことを、小学校高学年まで、「ぼくちゃん」と呼んでいた。近所の遊び友だちも、つられて「ぼくちゃん」と呼んでいた。この生家に、「ぼくちゃん、あそぼ」と、この幼なじみたちは誘いにきた。
さすがに、小学校高学年からは、母は私を本名の「昌幸」と呼ぶようになっていた。

両親がいま住んでいる実家は、かつては畑だった。父が畑を耕作し、わが生家の便所から、肥料として糞尿を桶に汲んで運んでいた。この畑では、野菜やイチゴなどを栽培していた。秋にはコスモスの花が咲き乱れていた。渋柿もたくさん実を付けた。

写真が残っていると、自分の漠然とした記憶が、固定して保存されやすい。この畑へ母が私を連れてゆき、桃の花を見せてくれたことがあった。それを父が撮影している。私が生まれた翌年、1956年の春と思われる写真が手元にある。



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私はこのときの幸福な気分を覚えていて、桃の花を見ると、とても心がなごむ。ゴッホに、「花咲くアーモンドの木」(1890年)の絵があるが、あの絵と同様の至福感を、私は桃の花に感じるのである。

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私の幼年期の至福感と結び付いた桃の木は、とても虫が付きやすく、おいしい果実を実らせたことはなかったが、たくさん花は咲かせた。畑に新しいわが家が建てられたとき、伐られてしまうが、切り株から芽が伸び、枝となって復活した。
のちに、学研の学習雑誌「高一コース」俳句投稿欄で、飯田竜太選に入った句の「桃の花」は、この復活した桃の木の開花を詠んでいる。ちなみに、この句の「姉」は、長姉C子、「子」はその長女。この姪は、すでに結婚し、母親となっている。

    子を連れて姉帰り来る桃の花    夏石番矢(『うなる川』)

生家の玄関内部の下駄箱の上を、母だか姉だか、ときどき生け花を飾っていた。家族に女が多いと、花が生活に頻繁に登場してくる。下駄箱の後ろの壁にあった丸窓も、かつてはどの家にも見かけられたが、いまとなってはなつかしく、昔の家の風雅を感じさせる。

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のどかな幼年期のようだが、私は毎年秋口から風邪を引き、風邪を引くと、必ず中耳炎を起こして、相生市内の内藤医院に通った。



この内藤医院は、代替わりして、いまも市内にある。現在は女医となって内藤医院を継いでいる一人娘のS子さんには、診察の順番を待っているあいだ遊んでもらったことがる。中耳炎も、中学生になるころはかからなくなったが、あるときぶりかえし、淳心学院の制服で、ひさしぶりに内藤医院に行くと、先生が私に、医者になって婿養子に来ないかと、真剣に尋ねた。淳心学院の卒業生に医者が多いからだが、私はむろんお断りした。けれども、あのおっとりした色白美人のS子さんの婿になるのも悪くないと思った。

ある日の未明、轟音を立てて、わが生家にトラックが突っ込んだ。御影石の石垣のおかげで、国道2号線に一番近い窓と壁が部分的に壊れただけの被害ですんだが、父は未明から突然起こされ、トラック運転手との補償交渉や警察の聴取などの心労から、肺炎にかかって入院した。
このおかげで、次姉K子は、大学進学をあきらめることになった。これは、1964年の東京オリンピックのころではなかったか。

国道2号線は、やがてわが生家跡をも呑み込むことになるが、それ以前にも、さまざまな影響や被害を、私たち一家の生活に及ぼしていた。母親の喘息は、あとから考えれば、国道の排気ガスが引き金になっていた。
この生家から、もう少し坂道を上った畑に、鉄筋コンクリートの平屋を建てて、引越しするのは、1966年、私が小学校4年生の秋だった。
1988年夏に、火事で全焼でするまで、わが生家は、真ん中で仕切られ、借家二軒分として使用された。

因縁話めくが、わが生家が、借り手の真昼の失火によって全焼し、保険金が転がりこんできたおかげで、いま私たちが住んでいる富士見市の家を購入することができた。わが生家は、このマイホームに姿を変えて、生きているのかもしれない。
だが、産婦人科で生まれた私の一人娘にとって、このマイホームは、実家であっても、生家ではない。


参照
相生 生家の記憶(1)
http://banyahaiku.at.webry.info/200612/article_17.html
相生 生家の記憶(2)
http://banyahaiku.at.webry.info/200612/article_18.html
相生 生家の記憶(3)
http://banyahaiku.at.webry.info/200612/article_19.html













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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
お産婆さんが家にやって来て、妹が生まれる日の記憶があります。そのとき3歳のわたしは、父に抱かれながら父の不安感を感じ取っていました。
風花
2006/12/17 09:32
お産婆さんが、昔はその地域の語り部でしたね。
Fujimi
2006/12/17 16:28
おはようございます。
相生市のご実家の日記を読ませていただきました。私が長く住んだ実家も国道3号線の側にあり、夜眠るときに車の通過音が子守歌のような記憶があります。
ただ1本裏に入ったところでしたのでトラックが突っ込む恐怖はありませんでしたが。
谷崎の「陰影礼賛」はすごくよくわかります。これは、いわば文化住宅とか、近代建築の対極にある日本家屋のゆえでしょうか。私も実家の記憶は陰影と陽光のはっきりと別れている画像です。
ザッコ
2008/04/08 09:27

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