姉からのファックス 赤穂浪士の俳諧資料、相生の寺から発見記事

赤穂市在住の姉から新聞記事2つファックス。赤穂浪士の一人、神崎与五郎の資料が、相生市の明顕寺で存在が確認されたとのこと。この寺の住職に父母の葬儀で読経してもらったが、現在は菩提寺ではない。

大高源吾、萱野三平と並んで、神崎が赤穂藩俳諧三羽烏と呼ばれていた。神崎の俳句自体は今回の資料にはない。

  赤穂浪士の手紙が眠る冬の寺  夏石番矢  



「神戸新聞」2013年11月23日付け

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 兵庫県赤穂市教育委員会は22日、相生市の明顕(みょうけん)寺所蔵の古文書7点を調査した結果、赤穂義士神崎与五郎(1666~1703年)の関係文書の真筆と確認した‐と発表した。神崎は俳句の名手で赤穂藩の「俳諧三羽烏(がらす)」と称された。研究者は「俳句仲間の交流を示す貴重な資料」とする。(小林伸哉)

 文書は、江戸城で赤穂藩主が刃傷事件を起こした1701(元禄14)年以前の執筆とみられる。市教委によると、「7点もの義士資料の確認は、全国的にも近年まれ」という。

 神崎の自筆は3点。銀札百目(現在の約40万円分)を借りた借用書もあり、連帯保証人は義士で同じ津山藩(現岡山県)出身の茅野和助。藩士の強いつながりを浮き彫りにする。

 同じく俳諧三羽烏と呼ばれ、忠義と親孝行のはざまで自害した赤穂藩士萱野三平が神崎に宛てた手紙は、もう一人の三羽烏の義士大高源五との句のやりとりを記し、あなたの句も読みたいと書く。

 研究団体「中央義士会」(東京都中央区)の中島康夫理事長(72)は「平和な赤穂藩の日常、討ち入り前の義士のつながりがうかがえる」と評価する。

 文書は23日~12月15日、赤穂市立有年考古館(同市有年楢原)で一般公開。無料。火曜休館。同館TEL0791・49・3488


 【神崎与五郎】津山藩に仕えた後、赤穂藩に仕官。赤穂城明け渡し後の約1年間、那波村(現相生市)に暮らし俳句を残した。江戸で商人を装って、奉公人らから吉良邸内部の様子を探った。元禄15(1702)年の討ち入りに貢献した。討ち入りの翌年に切腹。討ち入り時のけがの養生と称し、酒を飲むほどの酒好きだったという。

出典
https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201311/0006518789.shtml



「赤穂民報」2013年11月23日付

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 赤穂義士の神崎与五郎と茅野和助の自筆書状が相生市内の寺に保管されていることが、このほどわかった。討ち入りを前に自刃した萱野三平の書状を含めて史料は計7点あり、いずれも赤穂市教委が真筆と鑑定した。11月23日(土)から有年楢原の市立有年考古館で一般公開される。
 書状を所蔵するのは、相生市陸本町の超日山明顕寺(真宗大谷派)。内藤雅文住職(62)の話では、前住職から「赤穂義士の神崎与五郎関係の書状」と聞かされていたが、一般に公開したことはなかった。神崎は城明け渡し後、元禄15年春に江戸へ下向するまで那波に居住。同寺は同年に那波の得乗寺から分寺したとされる。
 市教委の解説によると、神崎の書状は妻「かつ」へ宛てた返書とみられる。母の気分がよいとの知らせを喜ぶ内容で、かな文字のやさしい筆跡に家族への思いやりが感じられる。
 茅野の書状は、父が亡くなったことに対して悔やみを寄せた神崎への礼状。茅野を加判人(連帯保証人)とした神崎の借銀証文(元禄12年12月)も一緒に保管されており、ともに元美作津山藩の森家中だった両家が懇意だったことを示す。
 また、萱野が神崎へ差し出した書状には、「子葉(大高源五の俳号)からも書状とともに一首届いた」とあり、俳諧を通じた3人の交流ぶりがうかがえる。
 史料公開は12月15日(日)まで午前10時~午後4時(入館は3時半まで)。入館無料。神崎が花岳寺の檀信徒だったことを示す「神崎家宗門改目録」(元禄12年)、神崎の父半右衛門が与五郎へ送った書状、津山藩家中時代の同僚とみられる2人から与五郎へ届いた書状も展示する。
 史料を判読した市教委の小野真一・市史編さん担当課長(51)は「義士関連の書状がまとまって確認されたのは近年では珍しい。与五郎と家族、同輩との交流がうかがえて興味深く、ほぼ当時の状態のまま残っている点も貴重」と話している。

出典
http://www.ako-minpo.jp/news/8247.html

神崎与五郎の俳句

「那波十景」は俳人竹平が開城後の隠棲中に詠んだもの(現相生市を当時那波と呼んだ)
○「那波とくが陸 あらそふとなし 夕田歌」浜田面の早苗
○「すんなりと 淵に入らてそ 蛍の火」鯆淵流の蛍乱
○「海山も 月の隈かな 岡野台」 岡野台秋月
○「竜神も 雪を見よとや 山のかげ」 雪降台暮雪
○「川柳 まねいて見るや 二子島」 二子対姨川
○「大島や 海はいよいよ 夏木立」 浮水大島翠(みどり)
○「此月に 素面なりけり 秋の鷺」 大避崎宿鷺
○「涼みかも 網帆唐めく 相生(おお)の船」 相生浦漁舟
○「彩色や 入り江いりえの 浅かすみ」 馬通望曲江(そのほか多くの俳諧や短歌が遺されている)


出典
http://www.ab.auone-net.jp/~tadeho48/akogisi/gisikojin/kanzakiyogoro.html



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この記事へのコメント

2013年12月02日 21:03
夏石先生のブログの更新を心待ちにしている花田です。こんばんは。俳諧に詳しくありませんが凄い発見のような。夏石先生の長文も凄いことになっています。うーん私は勉強不足。
2013年12月03日 22:21
それほど凄い発見ではありませんが、吉良邸討ち入り前の1年ほど、神崎与五郎がわが郷里で過ごし、発句を詠んでいたことがわかりました。この記事の文章は、ほとんど出典を明記した他のサイトからの引用です。今回私も勉強しました。

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