俳句と詩をめぐる考察 自由ぼけと欲求不満

ソ連統治下では、リトアニアのコルネリウス・プラテリスの詩集は、数千部売れていたが、独立後は数百部に減った。これは質の低下が招いたのではなく、自由のない社会では、文学以外の多くの種類の欲求を、詩が満たしていたことを物語る。

自由社会では、多様な欲求が、多様なジャンルの媒体、作品などによって満たされるが、その自由と多様性は、喜ばしいことながら、何が大切なのかがわからない指標のない社会でもある。自分で自分のほんとうの欲求を発見できる人は少数で、たいていはマスメディヤや他から与えられた価値や情報に従って、自分の欲求を満たしていると錯覚している。だから、自由社会の底辺には、底なしの欲求不満がくすぶり続けている。無差別殺人の原因は、ここにある。

さて、俳句は、自由社会の、日本、米国、フランス、ドイツなどでは、一般に浅くて保守的な実作がひろまっている。これは、幸福なことだろうか?

詩の根源的な価値を知っているのは、小さな国、政治的な抑圧があるか、近年まであった国の詩人である。そういう国の詩人たちは、俳句の価値をよく知っている。俳句の「有季定型」の仮面の下には、根源的な詩があり、彼らはそれを、翻訳をとおしてよく認識している。

だから、第4回世界俳句協会大会で、俳句を、「禅の見性(けんしょう)を実践する詩」(エストニアのアンドレス・エヒン)、

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「詩の一ジャンル以上の詩」(リトアニアのコルネリウス・プラテリス)、

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「啓示」(キューバのオルランド・ゴンザレス・エウステヴァ)、

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「抒情的宝石」(ラトヴィアのレオンス・ブリエディス)、

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「世界で一番親切なあいさつ」(内モンゴルのR・スチンチョクト、バー・ボルドー代読)

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と主張できるのである。

私は講演で、俳句作者の移動する自由な視点、芭蕉の傑作の立体性、宇宙性、哲学性、さらには曼荼羅のような宗教性を強調しておいた。

私の講演ののちに、鳴戸奈菜女史が、季語は世界俳句ではどうなるのかと、不安げに質問したが、いささかあきれた。何も詠むことがなくなった連中が、虚子だの、季語だのと寝言を言い始める。彼女もその一人にすぎないことを、海外からのすぐれた詩人の前で、自ら暴露した。

彼女は、世界俳句協会会員らしいが、これまで一度も会合に出席したことはない。4月の日本総会も、彼女が序文だか解説を書いた句集が、賞の候補になったので、その最終選考会に出席するため、出られないと返事してきた。彼女は一度も『世界俳句』に投句しなかった。海外の詩人に読まれると恥ずかしい句しか作っていないのが理由だそうだ。彼女は共立女子大学で英文学を教えていたが、職を辞してから英語は忘れたので、日本の俳句の英訳は手伝えないと言っている。こういう人のために、安い原稿料で、上げ底の解説文を、ふらんす堂の文庫に書いてあげたが、その文庫の略歴には、世界俳句協会会員とは明記してくれなかった。おまけに、鎌倉佐弓まで彼女についてのエッセイを書いた。

季語ではなくて、季霊を主張していた永田耕衣から、鳴戸奈菜女史は何を学んだのだろうか。自由でさえも使いこなせない鳴戸奈菜女史、ご愁傷さま。

    自由ぼけした女が季語をティッシュがわりに  夏石番矢

俳句には、さまざまな側面があり、ひまつぶしのために戯れることも許されているが、人間の根源的欲求を満たす根源的な短詩であることを、忘れてほしくない。かつて私は、俳句を「創造される呪文」と述べたが、日本ではほとんど理解されず、これは今回の第4回世界俳句協会大会で、海外のすぐれた詩人からの援護射撃をいっぱい受けたかたちになった。











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