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zoom RSS 自由律俳句の根拠

<<   作成日時 : 2011/02/25 15:54   >>

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自由律俳句の根拠

夏石番矢

 荻原井泉水が、自由律俳句を二十世紀はじめに提唱し始めたのは、日本国内のみならず、世界文学の視野のなかで、十分に根拠のあることだった。
 十九世紀後半のフランスから、自由詩(vers libre)が始まり、個人のそのときどきの個別の思いにふさわしいリズムを詩で探求することが、その後の世界の詩の主流となった。
 言い換えれば、「定型」は、それ以後、時代錯誤、保守反動、個人の抑圧の代名詞となった。
 一九九九年八月、ベルリンの世界文化ハウスで開催された俳句イベントで、金子兜太が、日本の俳句の要点について、「定型、定型」と繰り返し、主催者の信用失墜と、聴衆の落胆を呼び起こしたのは、「定型」が西洋世界では、時代遅れの保守反動に過ぎないからだったが、日本ではこのことが、ほとんど理解されていない。
 五・七・五音を「定型」と考え始めたのも、実は、明治以降のことだろう。芭蕉、蕪村、一茶は、「定型」という単語を使っていない。
 「定型」という単語は、古代中国にもあったが、文学では、西洋のfixed form(英語)、forme fixe(フランス語)、Feste Form(ドイツ語)などの翻訳語として日本近代に再登場し、とくに日本の短詩型に適用されたが、ここに大きな間違いが生じた。
 日本で「定型」という単語が定着し、独り歩き、いや暴走し始めたころ、西洋では「定型」詩は、ほぼ絶滅した。
 五・七・五音の俳句を、日本語以外のさまざまな言語に翻訳すると、まず五・七・五音にはならない。日本語の「定型」俳句でさえ、世界文学的に見れば、実は自由律俳句なのである。
 たとえば、松尾芭蕉の最高傑作の一つ、

荒海や佐渡に横たふ天の河

は、五・七・五音で書かれているが、この翻訳はまず五・七・五音にはならない。

a rough sea
stretching over to Sado
heaven’s river

これは、いい英訳かどうかは別にして、三・八・四音節(日本語の「音」と英語などの西洋言語の「音節」は同じではない)の現代英語詩として、『BASHO The Complete Haiku』(Translation by Jane Reichhold, KODANSHA INTERNATIONAL, Tokyo, New York, London, 2008)に収録され、世界に広まっている。
 私は、日本語の五・七・五音を全否定しているわけではないが、これを「定型」と考え、これが俳句の要点だとすることに、世界文学的観点から滑稽さを感じている。
 私の俳句の実例をとらせていただきたい。昨年インドで出版した日英対訳句集『ハイブリッド天国/Hybrid Paradise』(Cyberwit.net, India, 2010)収録俳句の、

考える神を運べば砂嵐

は、日本語の五・七・五音で書かれているが、並記してある英訳は、

Sandstorm:
I’m carrying
a thinking god

というシンプルな三行。意外なことに、二・三・四音節となっている。
 日本の俳句が、定型だの自由律だのなどという不毛な分離と対立を超えて、より創造的で自由な「自由律」の時代を迎えることを願っている。
 ゆめゆめ、虚子の「定型」、井泉水の「自由律」を守り、腐敗と堕落の坂を転げ落ちることがありませんように。








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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
成程★平素の先生の主張が端的にまとめられていると思いました。とくに日本において「定型」が浸透したとき、西洋ではソレが絶滅したというパラドックスは、この短文をピシリ!と引き締まったものにしています。
が一方で、つぎのよな疑問も浮かぶのです・・・・諸言語による三行詩はすべて"HAIKU"という「定型」だといえるのではないか?
ダイハード
2011/02/26 01:00
把瑠都に関しては、君の嫉妬とねたみが出たね。お里が知れた。九州の鼠男、ダイハード君! 今回は、定型と固定観念を混同しているね。
Fujimi
2011/02/26 03:41
お話の趣旨とは離れますが、荻原井泉水は高校の校歌を作詞された方として印象に残っています。作曲は團伊玖磨。
中学の教科書で井泉水の名前を知っていましたから嬉しかったです。

定型と自由律。その底に共通して流れている普遍的な俳性。通奏低音のような何かが見えてくると多言語にも共通のものとして立ち上がってくるのでしょうけど。上辺の殻としての定型を捉えていたら分からないですね。
mishimahiroshi
2011/02/26 10:10

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