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1995年1月17日、未明に目が覚めた。あの時、トイレに入ったことは、よく記憶している。 それから、なぜか眠れなかった。テレビを付けて見ていたら、高速道路が倒れた映像が流れ、煙が立っている映像が流れ始めた。何が起きたかわからないうちに、そのうち地震だとわかった。 これが、私と阪神・淡路大震災との接触のはじまりだった。 相生の実家に電話をかけたが、なかなかつながらなかった。相生にまで被害が及んだのかと心配した。数日後、無事が確認された。 その後、2月に、京都の国際日本文化研究センターで、中西進さん主催の、俳句の国際シンポジウムが開かれ、参加したのち、神戸に立ち寄った。鉄道がまだ復旧せず、途中からバスに乗り、川を渡ったことを覚えている。 阪急六甲駅から歩いて、灘区篠原北町の篠原墓地に行き、篠原本町にある本家の乾辰蔵家にも顔を出した。 まず、阪急六甲駅付近のビルが倒壊していたのを目撃。もう少し先のお寺の門が壊れていた。すべてが破壊されていたわけではないが、残った建物とダメージを受けた建物の明暗がはっきりしていた。 曾祖父と祖父の骨が分骨してある、わが家の墓も、本家の墓にも損傷はなかったが、周辺の墓には、倒壊、ひび割れなどの被害があった。本家の乾辰蔵・なるご夫婦も、さいわい無事だったが、近所のアパートの土台がひび割れ、傾いでいた。 因縁話のようだが、本家のご夫婦も、未明にトイレに行っていて、無事だった。寝室ではタンスが布団に倒れていたとのこと。 次姉の最初の勤務先が、兵庫県警長田署だった。このあたりは、被害が甚大だった。 『悲傷と鎮魂ー阪神大震災を詠む』(朝日出版社、1995年4月)には、次の句を寄せた。 枕に棲みつく地震の神戸をいかにせん 夏石番矢 後日、朝日新聞の「天声人語」に、この句は引用された。 父の代までは、神戸で生まれ、生活していた。おそらく、遠い親戚にも被害を受けた方々がいるだろう。 亡くなられた方々のご冥福を改めてお祈りしたい。 震災を生き延びた乾辰蔵・なるご夫婦も、それぞれすでに他界された。 参照 神戸での墓参 相生への帰省 http://banyahaiku.at.webry.info/200708/article_12.html |
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