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うかつにも、チュ二ジアのチュニスに、カルタゴ遺跡があると知らずに、10年前私はパリからチュニスに飛んだ。 カルタゴは、フェニキアから来た人たちが造り、紀元前2世紀にローマに滅ぼされたが、およそ650年間も貿易で繁栄し、地中海沿岸全域をほぼ手中に収め、アフリカ西岸へも勢力を伸ばそうとした世界国家だった。しかしながら、のちに世界帝国となるローマと三度闘い、ハンニバルの天才的戦略もむなしく、敗れ去り、消滅した。 チュニス到着の日、1997年1月17日の午後、カルタゴ遺跡を訪れた。雨模様の天気は、カルタゴ人の涙雨だろうか。丘に放たれた牛は、雨にもかかわらず、のんびりと草を食んでいた。 雨の一月カルタゴの丘には雌牛 夏石番矢(『地球巡礼』) カルタゴ滅亡後、ローマは、カルタゴを徹底的に破壊した。アフリカ属州の首都として、復興するときは、廃墟の上に盛り土をして、新しい町を建設した。 これは、大坂城で豊臣家を滅亡させ、その上に盛り土をして、新しく大坂城を築いた徳川幕府と同じ仕打ちだ。ローマが、いかにカルタゴを恐れ、その繁栄をねたんでいたか、徳川幕府が、いかに豊臣政権を恐れ、その繁栄をねたんでいたかを、物語る仕打ちである。 そのローマが築いたカルタゴも廃墟となり、廃墟の中心をなすビュルサの丘のテラスには、いまは国立カルタゴ博物館が建っていて、ここからの見晴らしはとてもいいが、あいにくの雨が視界をくもらす。 大理石の円柱は、ローマ時代のもの。それでも、ウチカ遺跡では見られなかったローマ以前のカルタゴ時代の遺構が、丘を少し下ったところにわずかばかり残っていた。 このカルタゴの遺構は、紀元前2世紀、つまり、ハンニバルが第二次ポエニ戦争で敗北したあとの時代のもの。 滅亡直前、本来の住み家からローマによって追い出された、カルタゴ人のための、避難所の跡が残っていたのである。カルタゴ人は、この丘に立てこもって、ローマの攻撃を半世紀ほどしのでいた。 この避難所の地下には、紀元前3、4世紀の金属工房があり、さらにその下には、紀元前6、7世紀の墓がある。いずれもカルタゴの長い営みを示す。 最終的にローマは、カルタゴ人を殺すか、奴隷としてよそへ移すかした。 カルタゴ遺跡で、実際に乳幼児の墓を見たが、写真は撮らなかった。ガイドから、カルタゴの幼児犠牲の風習についての説明を聞いて、気分が沈んだ。この風習は、カルタゴの母市、フェニキアのチュロスから持ち込まれた。幼児犠牲を否定する学説もあるが、説得力はないようだ。 カルタゴの幼児の墓や海に雨 夏石番矢(『地球巡礼』) カルタゴについては、カルタゴ側の文献や資料がほとんど残っておらず、これもローマの策略の結果と思われる。カルタゴにあった図書館の蔵書も消されてしまったのだろう。カルタゴには、歴史家も、詩人もいなかったと、研究者たちは言っているが、私はそうではないと思う。 カルタゴは、金儲けばかりで、信義を裏切る国だったと、ローマは風評を後世に残したかったのである。その思惑どおり、現代イタリア語のpunico、現代フランス語のpuniqueという形容詞は、「カルタゴの」を意味するとともに、「背信の」「裏切りの」を意味する。 カルタゴ人の弁明も聞きたいが、彼らは地上から消されてしまった。ギリシャ人やローマ人は、フェニキアとカルタゴを、野蛮なアジアの闇に封じ込め、自分たちをヨーロッパのルーツとしたのである。アルファベットの原型や、ヨーロッパの語源、女神エウロぺは、フェニキアで生まれたにもかかわらず。 |
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北アフリカへ寄稿
アルジェリアの Reda Mehafdi (男)さんから、英語かフランス語で、俳句、略歴、そして写真を送ってくれとのメールが到着したので、送った。 ...続きを見る |
Ban'ya 2008/02/13 21:04 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
カルタゴはフェニキア人の言葉で、「新しい街」というらしいですね。 |
風花 2007/01/19 07:52 |
はい、そのとおりです。 |
Fujimi 2007/01/19 19:02 |
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