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zoom RSS 相生 生家の記憶(3)

<<   作成日時 : 2006/12/16 00:01   >>

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モノクロ写真では、生家の室内を撮る機会が少なかったが、父はときどき私たちを撮っていた。
休日、たぶん日曜日の朝に起こされた寝ぼけ顔で、撮られた数枚があり、そのうちの1枚は椅子に座った私が写っている。浴衣を着ていた。小学校に上がる前、幼稚園にすでに通っていたころの写真だろうか。



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生家には、生まれてから小学校4年のころ、1966年の秋まで住んでいた。だから、1964年10月の東京オリンピックも、この生家で迎え、白黒テレビで見たはずだ。

兄弟は、11歳上の長姉と9歳上の次姉がいた。これに私と大正生まれの父母との5人で住んでいた。

西半分を貸していたのは、私が小学校に入学する前までで、いつごろか生家のその部分は、われわれ姉弟3人のスペースとなった。
私の持ち物は、国道2号線に向いた窓際に置かれていた。まだ私の机はなく、小さい箪笥に持ち物を入れ、箪笥の上にはおもちゃや子ども雑誌の付録を組み立てて飾っていた。窓の下の壁には、これも雑誌の付録の片仮名一覧表が貼ってあった。

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ある年末、畳を上げて干す大掃除をしたとき、私たち兄弟が寝ていた和室の床下から、猫のミイラが見付かった。

勉強は、台所に隣接する居間兼食堂の和室の、丸い卓袱台でやっていた。とくに塾にも行かず、成績は、体育以外は、5段階評価の5か4だった。
この丸い卓袱台は、伯父のJ・Mが創業し経営する江戸屋のお古だった。そう言えば、洗濯機や冷蔵庫も、江戸屋のお古をもらっていた。この伯父を「江戸屋のおっちゃん」と、私は親しみをこめて呼んでいた。

食事をし、勉強する和室には、1960年代にテレビが置かれ、鉄腕アトムを見るのが楽しみだったが、あまり鮮明には電波を受信できなかった。また、吉本新喜劇のドタバタコメディーや、アメリカのアニメ「フェリックス・ザ・キャット」も大好きな番組だった。1960年代の日本のテレビには、おおらかな笑いがあふれていた。

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「フェリックス・ザ・キャット」
http://www.felixthecat.com/
http://homepage1.nifty.com/gon2/cartoon/cartoon05.html

この和室の裏には、物置として使った小部屋があった。ここには、長持ちが置かれていた。とくに黴臭く、暗い部屋だった。

谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』がよく理解できるのも、窓が少なく、黴臭い生家のおかげだろう。

裏のY家でもらった雌の子犬、シロは、私によくなついていた。台所の裏の土間に、シロの犬小屋があった。シロの目のまわりに、私がいたずら書きをしたこともあった。きょとんとしたシロを指差しながら、笑いこけたことを覚えている。
生家と国道2号線をはさんだ向かいで牛乳屋をやっていた、親戚のM家から、私が気軽に来るように呼んだところ、シロは国道を渡ろうとして、私たちの目の前で車に轢かれて死んだ。このときの悲しみと自責の念は、とても強かった。

私も、小学生2年ごろ、一台の乗用車に撥ねられたが、数日寝ていただけで回復した。のちに、大学2年のとき、椎間板ヘルニアの手術をするさい、腰の骨が折れていたが、自然治癒していると、レントゲン検査のあと、医師から教えられた。

近所のT家の姉弟とは、幼いある日に出会い、よく遊びに行った。姉のS子さんは、私と同学年で同じ双葉小学校に通った。現在、この母校は移転し、温水プールになっている。



のちに看護婦になったと聞いた。弟のH君は、2歳年下で、後頭部の絶壁が目立っていた。このTという姓は、相生市の北西部にかつてあった東寺の荘園に由来している。

残年ながら、このT家も、わが生家も、近年の国道2号線拡張で消えてしまった。けれども、T家の裏にあった竹藪だけは、夢の痕跡のように路傍にいまも一部分残っている。



    生家の黴と暗闇思い出す師走    夏石番矢


参照
相生 生家の記憶(1)
http://banyahaiku.at.webry.info/200612/article_17.html
相生 生家の記憶(2)
http://banyahaiku.at.webry.info/200612/article_18.html
相生 生家の記憶(4)
http://banyahaiku.at.webry.info/200612/article_20.html








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