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zoom RSS 相生 生家の記憶(1)

<<   作成日時 : 2006/12/14 00:01   >>

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私が生まれたのは、国道2号線沿いの相生市菅原町。木造平屋の家だった。病院で出産せずに、お産婆さんに取り上げてもらう出産がまだあたりまえのころ。1955年7月3日午前10時ごろ、その家でこの世に生まれ出た。わが生家の写真が残っている。1960年代前半に撮影されたものだろう。



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生家とそのまわりの集落は、「上の山」と呼ばれる山からの下り斜面に建っていた。玄関の前には下り階段があり、すぐ前に国道2号線が走っていた。

この国道2号線は、戦後日本経済の発展とともに、交通量が増え、現在は拡張され、わが生家跡をも呑み込んでしまった。この生家が消えるのは、国道の拡張以前の火事によってなのだが、消滅した生家を、ここで思い出して、書き留めておきたい。

わが生家は、元来、南の相生駅前にあったものを、北の相生駅裏に移築したと聞いた。玄関が二つあり、便所も風呂も二つあった。この2軒分のスペースを、一家5人で使ったり、ときには向かって左の西半分を貸家にした。西の外壁には、「東芝」や「アース」などの看板が掛けられていた。

東の玄関がメインで、最初は磨りガラスに木枠の二枚戸がはめ込まれていた。その前で撮られた写真は結構たくさん残っている。
さきほどの写真より古く、たぶん、幼稚園に入る前のころと思われる写真がある。おもちゃの秤を顔に押し当てた私を、父が撮影した。遊んでいるときに怪我をして、右頬に傷ができたので、おもちゃの秤で隠そうとしたことを覚えている。左奥、玄関の三和土には、よく遊んだ三輪車が写っている。国道2号線沿いで、三輪車で遊んでもまだ危険ではなかった。

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風呂と便所は、母屋とは別棟で、母屋の裏側にあった。

風呂は、薪を燃料にした、鉄の五右衛門風呂。風呂釜の底に丸い木の板を自分の体重で沈めて入浴した。幼いときは、自分ひとりの体重では浮き上がったので、誰かと一緒に、とくに母と一緒に湯船に入った。
ある夜、母が一人で風呂に入っていたとき、外から侵入した痴漢だか泥棒だかにさわられたことがあり、母はその男の腕時計をつかみ取ったという武勇談がある。結局、この犯人は判明しなかった。
幼年期の幸福感は、風呂上りの私を父親が、母屋まで「湯上げタオル」でくるんで運んでくれるときに、最も強く感じた。この慣習がやめられてから、父にその理由を尋ねたら、私が「もう重とうなったから」との返事が返ってきた。

便所は、台所から土間を通って行く。汲み取り式の便所だった。夜行くのが恐ろしかったし、冬はとても寒かった。

台所の裏には、井戸があった。西半分を若夫婦に貸していたとき、隣から井戸越しに差し出された皿の上のスプーンを、受け取り損ねて、井戸に落として、私が泣いたたことがあった。西瓜をとこどきこの井戸に降ろして冷やした。釣瓶一杯の水は結構重く、井戸の水を自分で汲み上げられるようになったときは、格別うれしかった。何歳ごろだったろうか、小学生になってからではなかったろうか。
1988年に、この生家が借り手の失火で全焼し、更地になったとき、井戸は埋められたが、井戸跡ははっきりとわかった。

畳の部屋で、固く重い煎餅布団に横たわり、寝付けないときは、天井を見つめた。天井板のまんなかにある木の節目が、妖怪かばけもののように見えた。
風邪のひき始めの発熱のさい、煎餅布団で私は、決まって馬に乗って揺られている夢をみた。

    風邪の夜はししむらうねる黄色い馬   夏石番矢(初期句集『うなる川』)


参照
相生 生家の記憶(2)
http://banyahaiku.at.webry.info/200612/article_18.html
相生 生家の記憶(3)
http://banyahaiku.at.webry.info/200612/article_19.html
相生 生家の記憶(4)
http://banyahaiku.at.webry.info/200612/article_20.html



















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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ブログ仲間が、わたしの生家を探しあて、写真を撮ってきてくれたことがあります。
昔のまんま残っていて、感激しました!
その写真の一枚が、わたしが小学6年生のときに、生家を撮ったアングルと同じだったので仰天しました!
不思議なことがあるもんです。
風花
2006/12/13 20:34
生家が残っていていいですね。
私の生家は、記憶と写真にだけに存在します。
Fujimi
2006/12/13 21:35

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