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小泉八雲という人の名前は、たいていの人は知っているだろうが、何をした人かは、それほど知られていない。 かく言う私も、彼のことは、日本びいきの物好きな外人さんの一人と考え、大学生時代にみくびっていた。 ところが、Lafcadio Hearnとして、日本や俳句について、英文で、海外に情報を発信していた人として、近年、見直すようになった。 "Tsunami"(津波)ということばは、世界で通用することばになったが、このことばを、西洋世界にデビューさせたのが、ほかならぬLafcadio Hearnである。"A Living God"(1896年発表、Gleanings in Buddha-Fields, 1897年所収)という散文に、このことばは登場する。安政の大地震のときのエピソードをまとめた英文である。 俳句についても、彼の文章には、"Frogs"や"Fireflies"や"Semi"など、今日忘れ去られた俳句が、数多く引用され、日本人のメンタリティーを西洋人に紹介するのに役立っている。 "Frogs"(Exotics and Retrospectives、1898年)では、芭蕉の「古池や」が引かれ、俳句を "sensation-picture"、つまりは「感情画」としてとらえている。これは、俳句の目立つ特色は、イメージの喚起力だ、というHearnの鋭い指摘で、その後の西洋世界の俳句観のさきがけとなった。 この文章が収められている本の復刻版紹介は、次のサイトに。 http://www.ibcpub.co.jp/books/lh5.html Hearnは、次のような句をたくさん挙げている。よくまあ日本人は、蛙を俳句に詠んできたことか。 田の蛙水が鳴くかと思いひけり 花散るや蛙の声の香ににほふ 昼見ればみにくき顔の蛙かな また、この文章のしめくくりに、「われわれ西欧人は、なにか病的な触覚的感受性によって発達した醜陋なもののために、多くの純粋に自然な感銘にそっぽを向けてい」て、「日本人は、われわれが盲目的に醜悪なもの、ぶざまなもの、厭うべきものと考えているものに――たとえば昆虫とか、石くれとか、カエルとか、そういうものに『美』を発見している」(平井呈一訳)としめくくっている。 これも、日本文化の根幹をとらえ、俳句の根幹をとらえている卓見ではないだろうか? Lafcadio Hearnは、かつての出雲、鳥取県の松江市に住み、そこで日本人と結婚し、日本の神々や妖怪に興味を示し、"Kwaidan" (怪談)を書いたが、これは同じ鳥取県生まれの水木しげるが、妖怪漫画で活躍する「さきぶれ」としてとらえてもいいだろう。私は子どものころから、水木しげるの漫画が大好きだ。 Hearnは左目を、水木は左手を失っている。「五体不満足」な二人は、身体の一部を失い、別の何か大切なものを手に入れたのかもしれない。 (注) 以上は、2006年度明治大学法学部3、4年対象の「比較文化論UB」、10月18日、25日の授業の要点である。 |
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